やせっぽち寄稿文

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日本の古き良き「部活動」に物申したい


最近、「部活動の顧問が生徒に体罰」なんてニュースを頻繁に目にする。

多くの場合、世間は顧問側の指導力不足を指摘し、「体罰が許される時代じゃない」と糾弾し、顧問に責任を追及することで事態は収束へと向かう。

しかし、問題の本質はそんなに浅いものなのだろうか。根本的に、日本の「部活動」という制度を見直すべきではないか。決して体罰を振るう指導者たちを擁護するわけではないが、世論に一石を投じる意味で、「部活動」という伝統に反旗を翻したい。

 

 

体罰の問題

導入でも簡単に触れたが、現在の「部活動」は指導者の体罰の温床である。毎月ニュースで体罰の話題を目にするし、体罰に起因する自殺も事実起こっている。

また、ニュースで報じられる体罰の問題が単なる氷山の一角に過ぎないことは想像に難くない。私が中学時代所属していた部活動でも体罰はあったし、体罰の噂が絶えない部活動も存在した。直接的な暴力だけでなく、人権否定などの精神的暴力も体罰に含めるならば、世の中の半数以上の部活動で体罰が起こっていると言えるのではないだろうか。体罰が社会的に大きな問題であることは疑いようのない事実なのである。

 


 

体罰の原因

体罰の直接的な原因が「顧問の指導力不足」であることは間違いない。顧問達の時代錯誤とも言える指導の仕方が問題なのである。全ての顧問が正しい倫理観のもとで、適切な指導を行えば勿論問題は解決するだろう。しかし、実際のところ顧問への呼びかけ程度で問題が解決する気配はない。

ここでは、その根本的な原因を日本の「部活動」という制度そのものに見出したい。

ここまで何十年間もの間、「部活動」は子供達の豊かな精神を育むユートピアとして描かれてきた。

しかし、ここで現代の「部活動」を経験した1人としてはっきりと明言しておきたい。ユートピアとしての「部活動」は破綻した。大人たちが夢見る、古き良き日本の「部活動」などという神話はとうに崩壊してしまったのである。

 

崩壊した「部活動」

何がどう崩壊したのかを簡潔に説明したい。部活動は概して言えば、「教職員の指導の元で、生徒達が目標の達成に向けて努力する場」とまとめることができる。ここでいう「目標」というものは、中体連優勝であったりコンクールでの受賞であったりと、それぞれの部活動によって異なるだろう。そうした「目標」の達成に向けて活動していく中で、集団としての協調性や忍耐力、自発性を育んで欲しい。それが大人達の描く「部活動」の理想である。

当然のことだが、ここでは前提として「目標に向かって努力する生徒たち」が存在している。古き良き「部活動」には、厳しい顧問の指導にも音を上げず、ひたむきに活動に打ち込む子供達の存在が絶対的に必要なのである。そんな子供達の前では、暴力や厳格な指導は「目標達成のための必要悪」として正当化されるのかもしれない。

しかし、現実を見てみれば、現代の子供達の半数以上はそのようなことは考えていないように思われる。現代の子供である私が言うのだから間違いない。周囲を見渡せば、「サッカーするのが好きだからサッカー部に入った」「友達がみんな入ったからテニス部に入った」なんて生徒で溢れている。ここでの子供達のスポーツや芸術への関心は、「like」であって「love」ではない。あくまで趣味としてそれらの活動が好きなのであって、そこで結果を残そうという熱意を持って部活動に打ち込む子供は案外少ないのである。

そんなのあなたの主観だろ、と思う人もいるだろう。そう思う人は、ツイッターで中高生のつぶやきをのぞいてみるといい。「部活 クソ」とでも検索すれば、部活に熱意なんて持ってない子供達の惨状がよくわかる。もっとも部活動の愚痴を言う子供の多くはアカウントを一般には公開していないだろうから、検索してヒットするのはそのほんの一部だろうが。

こうして、「大人達の前提とする子供達」と、「現代の子供達」の間に大きなズレが発生している。これが先述した、「部活動」の破綻の正体である。

 

そんな中、理想を振りかざす大人達とそれほどの熱意のない子供達が衝突した時何が起こるか。「部活動」に取り憑かれた大人達は、自分達が子供の頃されてきたように、「目標の達成」のために様々な手段を講じる。暴力や行き過ぎた指導が起こったってなんら不思議ではない。そしてそれが「目標の達成のための必要悪」だなんて微塵も思っていない子供達は、それを体罰として世間に訴える。「大人達の理想の押し付け」が、膨れ上がった体罰という社会問題の一因であることは疑いようのない事実なのである。

 

一昔前は部活に熱意のない子供達がいなかったのか、と問われれば、正直その時代を経験していない私には正確なことはわからない。おそらく一定数存在していただろう、とは考えられる。しかしながら、こうして「体罰」という形で問題が顕在化している以上、部活に熱意のない子供達の存在が昔と比較して無視できないほど大きなものとなっていることは間違いない。それはSNSの拡大とも結びついているのかもしれない。

 

また、「部活に熱心に打ち込む子供達」「部活に熱意なんて持ってない子供達」の間でも摩擦が発生している。ツイッターでも「そんなクソみたいな理由で部活やめるな」「お前の私情を部活に持ち込むな」といったつぶやきが散見される。本気で部活動をやりたい子供達からしてみれば、熱意のない子供達の存在は邪魔でしかないのかもしれない。もっとも、熱意のない側からしてみれば「部活」を神格化して私情を持ち込ませない子供達なんて知ったこっちゃないのだろうが。

事実、部活いじめに起因する自殺も発生しているのだから、こちらの生徒間での摩擦も無視できるものではない。

 

解決策

問題を提起しただけではただのクレーマーでしかないので、一つ解決策を提唱しておきたい。私の考える解決策は、「部活動の分解」である。

現在の部活動の問題は、多くの生徒の求める部活像と大人の求める部活像の差異に起因する。ただ純粋にその競技を楽しみたい、というだけの子供達にとって、とやかく指導してくる大人は邪魔で仕方ないのである。

そうであるならば、部活動を従来の「部活動」と緩めのサークル活動のような同好会に分離してしまえばいいのである。そうすれば、「部活動」に入って結果を残したい子供達はこれまで通り活動に打ち込めるし、競技を楽しみたいだけの子供達も大人に介入されずに活動を楽しむことができる。

 

それなら「部活動」に入りたくない生徒が「部活動」に入らなければいい話ではないか、と思う人もいるだろう。しかし、問題はそう簡単ではない。

「部活動」は現在、人間関係を育む場所としての役割を担っているということにも留意する必要がある。多くの学校で、ほとんどの生徒が部活動に所属している。また、所属しなければならない、という雰囲気もある。どことなく帰宅部の生徒を卑下する風潮が残念ながら存在しているのである。

この風潮を完全に断ち切ることは非常に難しい。仮に可能だとしても、そのためには長い年月が必要である。そうであるならば、学校側、あるいは地方公共団体が子供達に、競技を純粋に楽しむだけの新たな『部活動』という形を提示すればよい。新たな枠組みを作るということに大きな意味があるのである。

 

まとめ

日本の古き良き「部活動」などというものは残念ながら破綻してしまった。現在そこにあるのは、大人達の理想の押し付けと子供達の悲痛な叫びだけである。膨れ上がった「体罰」の問題を解消するためにも、「部活動」という古腐った伝統は早急に淘汰されるべきなのではないか。

 

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